プロ野球歴代選手名鑑

歴代のプロ野球選手を紹介するブログです

酒井圭一(ヤクルト)

酒井 圭一

さかい・けいいち
生年月日:1958年6月1日
投打  :右投げ右打ち
身長/体重:185cm/88kg
ポジション:投手
出身  :長崎県
ドラフト:1976年1位
経歴  :海星高校(長崎県)-ヤクルトスワローズ(1977~1990)
球種  :ストレート、カーブ、シュート

選手概要

「サッシー」の愛称で知られた右腕。

高校生時代

長崎・海星高校時代は、3年夏に長崎県大会と西九州大会の予選で計7試合を投げ、奪三振70、失点1、2試合でノーヒットノーランを達成と大活躍。

その勢いのまま出場した甲子園では、5試合を投げて被安打16、奪三振40、失点6を記録し、ベスト4進出の立役者となった。

この成績から「怪物サッシー」「江川以上の怪物」「稲尾二世」などと呼ばれ、ドラフトの目玉に。

1976年にドラフト1位でヤクルトへ入団。背番号18を与えられ「超高校級のストレートを投げる」と騒がれた。

プロ1年目~3年目

1年目の1977年は6試合に登板。0勝2敗、防御率6.63を記録した。二軍では9試合に登板。2勝2敗、防御率3.00を記録した。

2年目の1978年は一軍登板なし。二軍では8試合に登板。1勝3敗、防御率4.97を記録した。

3年目の1979年は24試合に登板。0勝3敗、防御率6.60を記録した。二軍では7試合に登板。0勝0敗1セーブ、防御率1.08を記録した。同年のオープン戦で打球が顔面を直撃する不運に見舞われ、本人曰く「それ以来ボールを投げるのが怖くなった」。また、八重樫幸雄は「この時の怪我のせいで目が悪くなったのではないか」と語っている。

プロ4年目~6年目

4年目の1980年は28試合に登板。4勝3敗4セーブ、防御率3.11を記録した。

5年目の1981年は14試合に登板。1勝1敗、防御率5.40を記録した。同年は前半戦で右肘を痛めてしまい、二軍落ちを経験。

6年目の1982年は8試合に登板。0勝0敗、防御率7.00を記録した。二軍では15試合に登板。3勝2敗2セーブ、防御率1.65と好成績を残した。

プロ7年目~9年目

7年目の1983年は15試合に登板。0勝0敗、防御率7.45を記録した。

8年目の1984年は背番号が「18」から「23」へ変更に。これが転機となったか、自己最多となる42試合に登板。1勝2敗、防御率5.06を記録した。

9年目の1985年は8試合と登板減。0勝0敗、防御率6.75を記録した。二軍では22試合に登板。2勝3敗4セーブ、防御率3.69を記録した。

プロ10年目~12年目

10年目の1986年は2試合に登板。0勝0敗、防御率12.27を記録した。二軍では17試合に登板。5勝6敗1セーブ、防御率2.90を記録した。

11年目の1987年は28試合に登板。0勝1敗、防御率3.95を記録した。

12年目の1988年は34試合に登板。0勝0敗、防御率2.86を記録した。

プロ13年目~引退まで

13年目の1989年は5試合に登板。0勝0敗、防御率5.63を記録した。二軍では16試合に登板。1勝1敗、防御率3.34を記録した。

14年目の1990年は1試合に登板。0勝0敗、防御率31.50を記録した。二軍では19試合に登板。2勝2敗3セーブ、防御率3.25を記録した。

同年限りで現役を引退。

二軍では好成績を残すことが出来ていたが、一軍ではなかなか結果を残すことが出来なかった。やはり、打球直撃の後遺症が大きかったか。

引退後

翌1991年~1998年はヤクルトの打撃投手を務め、1999年~2018年はスカウトを務めた。

選手分析

球種:八重樫曰く「ヤクルト入団当初はストレート、縦と横のカーブだけ」。1985年頃は右打者の内角をえぐるシュートを投げていた。
長所:八重樫曰く「低めのボールが伸びる」
短所:1980年頃「低めへの制球力がない」と評された。

 

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