プロ野球歴代選手名鑑

引退/退団したプロ野球選手のプロフィールや一軍・二軍成績を紹介するブログです

品田操士(近鉄)

品田 操士

しなだ・あやひと
生年月日:1973年10月3日
投打  :右投げ右打ち
身長/体重:183cm/83kg
ポジション:投手
出身  :埼玉県
ドラフト:1991年3位
経歴  :花咲徳栄高校-近鉄バファローズ(1992~2000)
球種  :ストレート、カーブ、フォーク

選手概要

右腕。品田寛介の兄。

アマチュア時代

中学生時代は一塁手としてプレー。

花咲徳栄高校では投手としてプレーし、3年夏は県大会5回戦で敗退。この時の1年後輩に池田郁夫などがいる。

1991年にドラフト3位で近鉄へ入団。「MAX147kmのストレートを投げる」「カーブ、フォークも一級品」という前評判だった。

近鉄1年目~3年目

1年目の1992年は2試合に登板。0勝0敗、防御率30.86を記録した。同年は9月1日に行われた西武戦でプロ初登板。地元・埼玉県でのデビューとなったが、3回2/3を投げて15失点(自責点14)と炎上。さらに、オフは膝の半月板を手術するなど、辛いシーズンとなった。

二軍では21試合に登板。3勝10敗1セーブ、防御率4.82を記録した。また、ジュニアオールスターへ出場し、勝ち投手となっている。

2年目の1993年は一軍登板なし。二軍では12試合に登板。3勝3敗3セーブ、防御率2.35を記録した。同年は米国への野球留学を経験。また、9月21日に行われた二軍でのオリックス戦で9回2死までノーヒットノーランを継続したこともあった。

3年目の1994年は15試合に登板。0勝0敗、防御率4.31を記録した。二軍では10試合に登板。1勝2敗1セーブ、防御率1.42を記録した。

近鉄4年目~6年目

4年目の1995年は13試合に登板。2勝0敗、防御率6.16を記録した。 同年は38回を投げて与四球23、暴投5と球が荒れていた。二軍では10試合に登板。2勝3敗1セーブ、防御率3.67を記録した。

5年目の1996年は9試合に登板。4勝2敗、防御率5.04を記録した。二軍では7試合に登板。4勝1敗、防御率2.70を記録した。

6年目の1997年は2試合に登板。0勝0敗、防御率0.00を記録した。二軍では30試合に登板。4勝4敗3セーブ、防御率3.12を記録した。同年オフにハワイ・ウインターリーグへ参加。

近鉄7年目~9年目

7年目の1998年は6試合に登板。0勝0敗、防御率6.48を記録した。二軍では34試合に登板。4勝3敗4セーブ、防御率3.57を記録した。

8年目の1999年は17試合に登板。1勝3敗、防御率6.60を記録した。二軍では12試合に登板。2勝2敗3セーブ、防御率0.42と好成績を残したが、オフに左足首を手術。

9年目の2000年は一軍登板なし。二軍では5試合に登板。1勝0敗、防御率5.40を記録した。

同年限りで近鉄を退団。

NPB退団後

翌2001年はアメリカ独立リーグのエルマイラ・パイオニアーズでプレー。18試合に登板し、10勝7敗、防御率3.29を記録した。

翌2002年はイタリアのボローニャでプレーした。何年までプレーしたかは不明(インターネットの情報によると2002年のみプレー)

選手分析

投法:1996年にトルネード投法へ挑戦したが、1996年オフ~1997年開幕前の間に「膝に負担がかかる」という理由でオーバースローへ戻した。ちなみにこのトルネード投法は「レモネード投法」などとも呼ばれた。
球速:1994年の映像を見ると、140km台前半~中盤のストレートを投げている。
球種:ブレーキが鋭いカーブ、フォークを投げた。

 

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【1991年近鉄ドラフト指名選手】
1位:高村祐
2位:江坂政明
3位:品田操士
4位:中村紀洋
5位:背尾伊洋
6位:森山一人
7位:上山勲
新外国人:デービス ビーン