林 孝哉
はやし・たかや
生年月日:1973年6月1日
投打 :右投げ右打ち
身長/体重:177cm/80kg
ポジション:内野手
出身 :和歌山県
ドラフト:1991年7位
経歴 :箕島高校-福岡ダイエーホークス(1992~2002途)-日本ハム/北海道日本ハムファイターズ(2002途~2004)-千葉ロッテマリーンズ(2005~2006)
選手概要
内野手。
アマチュア時代
中学時代は県大会で優勝。
箕島高校では2年生から遊撃手としてレギュラーの座に就き、3年春に甲子園へ出場。2回戦の大阪桐蔭高校戦で背尾伊洋から2打席連続本塁打を放ったが、4-6で敗退。当時の1年後輩に高野忍などがいる。
1991年にドラフト7位でダイエーへ入団。「広角打法」「打力が魅力の遊撃手」という前評判だった。
ダイエー1年目~3年目
1年目の1992年は二軍で60試合に出場。打率.228、3本、21打点、5盗塁を記録した。同年は51試合で遊撃のポジションを守った。
2年目の1993年は二軍で91試合に出場。打率.265、5本、40打点、5盗塁を記録した。同年も主に遊撃を守り、フレッシュオールスターへの出場も果たした。
3年目の1994年は春キャンプ終了間際に右脚靭帯を損傷。二軍で74試合に出場したが、打率.202、0本、12打点、2盗塁と成績を落とした。
ダイエー4年目~6年目
4年目の1995年に一軍デビュー。6試合に出場。打率.100、0本、0打点を記録した。守備では三塁手として5試合守った。二軍では67試合に出場。打率.228、8本、39打点を記録した。
5年目の1996年は一軍出場なし。二軍では12試合に出場。打率.273、1本、5打点を記録した。同年は右足首靭帯の損傷により、出場数を大きく減らした。
6年目の1997年も一軍出場なし。二軍では71試合に出場。打率.246、7本、27打点を記録した。
ダイエー7年目~9年目
7年目の1998年も一軍出場なし。二軍では70試合に出場。打率.230、4本、29打点を記録した。
8年目の1999年は77試合に出場。打率.226、3本、13打点を記録した。同年は開幕一軍入りを果たすと、135試合でベンチ入りし、8月8日の近鉄戦でサヨナラ打を放つなどして、チームの日本一に貢献した。
9年目の2000年は53試合に出場。打率.274、2本、8打点を記録した。同年は一塁、二塁、三塁を守り、代打打率.400を記録するなど、控え選手として存在感を示した。
ダイエー10年目~11年目
10年目の2001年は49試合に出場。打率.222、1本、6打点を記録した。同年は一塁の守備固めでの出場が多く、21打席しか立たなかった。同年はチームが捕手不足に陥った際、ブルペン捕手を務めたこともあった。
11年目の2002年6月21日に田口昌徳とのトレードで日本ハムへ移籍。
日本ハム時代
同2002年は66試合に出場。打率.252、6本、28打点を記録した。同年7月26日にはダイエー戦で代打サヨナラ本塁打を放ち、古巣を見返す形となった。
翌2003年は4試合に出場。打率.286、0本、2打点を記録した。同年はシーズン序盤に右足首靭帯の手術を受けた影響で、出番が少なかった。二軍では51試合に出場。打率.289、9本、37打点を記録した。
翌2004年は4試合に出場。打率.000、0本、0打点を記録した。二軍では78試合に出場。打率.330、14本、47打点を記録した。
二軍では好成績を残したが、同年限りで戦力外となり、日本ハムを退団。
トライアウトを経て、ロッテへ移籍した。
ロッテ時代
翌2005年は4試合に出場。打率.000、0本、0打点を記録した。二軍では78試合に出場。打率.259、4本、28打点を記録した。
翌2006年は一軍出場なし。二軍では75試合に出場。打率.250、5本、29打点を記録した。
同年限りで現役を引退。
ドラフト下位入団、3度の右脚故障に見舞われるという逆境のなかで、15年もプロ野球選手としてプレーした点は見事。
引退後
翌2007年~2008年はソフトバンクの管理部で勤務。2009年~2010年は同じくソフトバンクの二軍内野守備走塁コーチを務めた。
2011年~2013年は日本ハムのスカウト、2014年~2015年は一軍打撃コーチ、2016年~2017年は二軍打撃コーチ、2018年~2021年は再びスカウト、2022年~2025年現在は一軍ヘッドコーチを務めている。
日本ハムのスカウトとしては松浦慶斗などの指名に関わった。
選手分析
得意:右打者だが、1999年、2000年は右投手を得意とした。一方で2002年は左投手を相手によく打った。
守備:入団時は「守備範囲が広い遊撃手」と言われたが、一軍では一塁、二塁、三塁を守った。また、2000年頃「堅実な守備」と評価された。晩年は衰えがあったか、2006年は三塁の守備で16試合、4失策とややエラーが多かった。
エピソード
・ヘッドコーチとして新庄剛志監督から高く評価されている。