
「スーパースターにはなれないけど、実績でスターになれるよう来季もがんばる」
1991年、大野久が盗塁王を獲得したときの言葉だ。
その1年前に阪神からダイエーへトレードされるも、腐らずに奮起した大野。引退後は教鞭を執り、指導者にもなった。
そんな彼が歩んだ道のりは他の野球人とは違う、波乱万丈なものだった。
- ■“少年隊”と呼ばれた阪神時代
- ■走り続けて盗塁王、そして自由契約
- ■母校から薦められた新しい道
- ■新監督・大野久の熱血指導
- ■熱血監督と理事の対立
- ■海外の野球、少年野球指導者への道
- ■密輸の発覚
- ■野球人の夢と現実
■“少年隊”と呼ばれた阪神時代
大野は高校時代を取手二高で過ごした。
当時の監督はあの木内幸男。この類稀な名将の元で見事甲子園優勝を果たした。
その後、東洋大学、日産自動車を経て、1984年にドラフト5位で阪神へ外野手として入団。プロ野球選手としての道を歩み始めた。
入団直後は頭角を現せなかったが、1987年、82試合に出場すると、翌1988年に就任した村山実監督から、中野佐資、和田豊と共に“阪神の少年隊”と呼ばれ、期待された。
その期待に違わぬように、同年は130試合に出場して規定打席に到達。打率.254、24盗塁と花開いた。
さらに1989年には125試合に出場し、打率.303の好成績。22盗塁と、2年続けて俊足も見せつけた。
それでも1990年に打率.247と成績を下げると、オフにダイエーへとトレード。シーズン中からトレードされるという報道はあったものの、自分を欲しい球団があるならとプラスに受け止めていた。
■走り続けて盗塁王、そして自由契約
前向きな気持ちで移籍した大野は、1年目から持ち味を存分に発揮した。
シーズン前半は主に2番として働き、8月からは1番に抜擢。打率.289、42盗塁を記録、盗塁王に輝いた。
しかし、1992年、1993年と打率が2割台前半に終わると、1994年は一軍出場なし。オフに自由契約となった。
その後、テストを経て中日へ入団するも1995年は28試合の出場に留まり、オフに現役引退。1996年からは二軍外野守備走塁コーチへと転身した。
この時期に走塁コーチとして教えた選手が、荒木雅博だ。荒木は早速1997年、外野の守備固め、代走として63試合に出場した。
しかし、コーチとしての仕事も1997年オフに退団。新しい職を探すことになる。
■母校から薦められた新しい道
退団報告をするために母校・東洋大学へ向かった大野は、そこで今までとは違う職業を薦められる。
それは「学生指導に協力してくれないか」 という、高校野球監督就任の依頼だった。
早速大野は教員免許習得のために大学へ通い、2年後に東洋大附属牛久高校へ社会科教師として赴任した。
だが、すぐに野球部を教えられたわけではない。当時、2年間教師として実績を積まなければ野球部を教えられない規則だったためだ。
2003年、ようやく大野は野球部の監督へと赴任する。大野の、第二の人生が始まった。
■新監督・大野久の熱血指導
大野は初めて臨んだ高校野球の監督という仕事に、熱心に取り組んだ。
「休みは元旦だけ、毎日、終電車ギリギリの時間までドロだらけになって」 と、野球ムック本の取材にこう答えている。
大変だった仕事は野球部の指導だけではない。一般教員としての業務もあった。3年生の担任も任され、生徒の進路相談も行った。多忙な1年を過ごしたが、手を抜かなかった理由は大野が真面目で、熱血感な性格だったからだろう。
野球部もまだまだ力不足だった。
2003年茨城県大会準々決勝では、常総学院と対戦。取手二高時代の恩師・木内監督が指揮する高校だ。結果は東洋大附属牛久高校が「0対10」でコールド負け。力の差は歴然としていた。
それでも大野は諦めない。自身の人脈を駆使し、年間100以上の練習試合を行った。チームを強くするために必死だった。
■熱血監督と理事の対立
しかし、2013年。野球部の監督を退任する。 この経緯について、大野は2018年、web Sportivaの取材にこう答えている。
「元プロの監督がほしいんだと思って赴任したんですけど......学校側は別に誰でもよかったみたいです。彼らがほしかったのは"野球部を引き受けてくれる教員"であって、決して"元プロ監督"ではなかったんです」
指導者としてチームの強化に取り組めば取り組むほど、他の職員たちの顔は曇ったという。
それでも野球部を強くしたいという思いがあった大野は、遂に理事と対立。監督の職を外された。教師として高校に残ったが、心が折れて夏休み後に学校を去った。
■海外の野球、少年野球指導者への道
野球に携わりたいという思いがあった大野はオーストラリアで指導者のライセンスを取り、2014年からオーストラリア代表U15のコーチへと転身。さらに同年、オーストラリアにあるロビーナハイスクールの野球科コーチにも就任し、国際的な指導者として力を発揮した。
それだけではない。2015年には、日本のヤングリーグ全日本少年公式野球連盟技術顧問にも就任している。さらに、日本の中学生にオーストラリアの学校を紹介し、行ってもらうという事業にも取り組み始めた。
2016年には侍ジャパンのU15コーチにも選ばれ、少年球児たちを指導した。高校野球の監督を辞めさせられても、子供たちを教えるという目標だけは挑み続けた。
■密輸の発覚
その後、2018年にはアメリカの独立リーグでの指導にも携わる。しかし、ここでは無給だったという。渡航費も自腹という厳しい条件だった。それでも、野球に関わり続けるために引き受けた。
翌2019年、野球ファンに信じられないニュースが飛び込んできた。
「元阪神・大野久 妻と共謀し、金3キロを密輸」
大野が関西空港の税関で、海外で購入した金を密輸しようとしたことがバレて略式起訴されたと報道は伝えた。 週刊朝日には、大野の元同僚と話す男の証言が掲載された。
「常に野球に関わってはいるけど『なかなか食えない』『日本でいい仕事があったら紹介して』と言っていた」 「選手時代から練習の虫。勉強熱心だったから先生にまでなれた」
表向きには指導者として輝いていた大野だが、生活は苦しかったようだ。
大野が密輸で誤魔化そうとした金額は、108万円。一般的に大金ではあるが、発覚した際のリスクを考えるとそこまで高い額とも思えない。それほど生活に苦しかったことが窺える。
■野球人の夢と現実
野球部の監督でなくても、一般教師としての道を歩み続ければ生活には困らなかっただろう。 教師を辞めてからも、野球関係の仕事にこだわらなければ職はあったはずだ。
しかし、大野はその道を選ばなかった。生涯をかけて球児を指導するという夢を追い続けた。
だが、現実は厳しい。無給の仕事にしか就けない時期まで存在した。苦しい生活のなかで事件まで起こしてしまった。
「家族もいるのだから地に足をつけた生活を……」 と言いたくなる人もいるだろう。
それは紛れもない正論だ。
だが、どこまでも真面目に、熱く、一生懸命に野球に携わってきた大野。現実は厳しくとも夢を追い続けた大野。筆者は彼を責めるほど冷たくなることが出来ない。
ただただ、世の中の無常さを悲しむことしか出来ないのだ。
※参考文献
読売新聞 1991年10月18日朝刊
『プロ野球戦力外通告』オークラ出版
あのプロ野球「盗塁王」が、給料ゼロで 米独立リーグコーチになる事情(https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/hs_other/2018/05/23/___split_25/)
元阪神の大野久が妻と共謀し、金3キロを密輸 「仕事あったら紹介して」と知人に頼む (https://dot.asahi.com/wa/2019031400010.html?page=1)
