沢藤 光郎
さわふじ・みつろう
生年月日:1919年8月10日
投打 :右投げ右打ち
身長/体重:167cm /64kg
ポジション:投手
出身 :岩手県
ドラフト:なし
経歴 :盛岡商業高校-釜石製鉄-盛岡鉄道管理局-近鉄パールス(1950~1957)
球種 :ストレート、シュート、緩いカーブ、チェンジ・オブ・ペース
選手概要
低迷期の近鉄を支えた右腕。
盛岡商業高校時代は、1936年に甲子園へ出場。1回戦で敗退。
高校卒業後は釜石製鉄でプレー。その後移籍した盛岡鉄道管理局では、のちに阪神へ入団する白坂長栄と共に活躍。
1950年、同年に創設された近鉄へ入団。この時、既に30歳だった。
プロ1年目~3年目
1年目の1950年は50試合に登板。18勝19敗、防御率3.70を記録した。
同年3月13日にプロ勝利を挙げたが、これが近鉄球団初勝利にもなった。また、この年に挙げた18勝、301回2/3がチーム1位の成績だったことを考えると、エースとして活躍したと言っていい。
2年目の1951年は36試合に登板。8勝16敗、防御率3.11を記録した。
この年の16敗は、リーグ最多敗戦となる数字だった。
3年目の1952年は40試合に登板。5勝22敗、防御率4.40を記録した。
この年も22敗を記録し、2年続けてリーグ最多敗戦投手となった。
プロ4年目~6年目
4年目の1953年は38試合に登板。12勝12敗、防御率2.64を記録した。
5年目の1954年は29試合に登板。低迷するチームの中で、14勝2敗、防御率2.00と好成績を記録した。
6年目の1955年は30試合に登板。2勝9敗、防御率3.06と成績を落とした。
プロ7年目~引退まで
7年目の1956年は26試合に登板。7勝5敗、防御率2.69を記録した。
8年目の1957年は26試合に登板。2勝5敗、防御率2.68を記録した。
同年限りで現役を引退。
晩年はコーチのような役割も務めていた。
引退後
引退後、翌1958年から1969年まで近鉄のコーチを務めた。
その後もスコアラーとして近鉄へ残ったが、何年まで在籍していたかは不明。
1987年12月5日に逝去。68歳だった。
選手分析
投法:サイドスローだったが、アンダースローとする資料もある
球種:ホップするストレート、シュート、緩いカーブ、チェンジ・オブ・ペースを武器とし、老獪な投球術を見せた。