竹下 潤
たけした・じゅん
生年月日:1969年7月12日
投打 :左投げ左打ち
身長/体重:184cm/80kg
ポジション:投手
出身 :静岡県
ドラフト:1991年1位
経歴 :静岡市立商業高校-駒澤大学-西武ライオンズ(1992~2003)
球種 :ストレート、縦に割れる緩いカーブ、フォーク
選手概要
左腕。
アマチュア時代
静岡市立商業高校3年生の時に、外野手から投手へ転向。甲子園出場はなし。
高校卒業後は駒澤大学へ進学。大学では若田部健一の控えだったため、あまり登板機会はなかったが、それでも4年生のときに6勝を挙げてリーグ優勝に貢献した。当時の1年先輩に関川浩一、1年後輩に鶴田泰、田口昌徳などがいる。
1991年のドラフトで、若田部を抽選で外した西武が竹下を1位で指名し、入団。周りも本人もドラフト1位を想定していなかったが、これは「即戦力の左腕が欲しい」という森祇晶監督の要望が関係していたと言われる。
当時の前評判は「大きく曲がるカーブが武器」というものだった。
プロ1年目~3年目
1年目の1992年は5試合に登板。1勝0敗、防御率10.24を記録した。同年は9回2/3を投げて与四死球13とコントロールに苦しんだ。二軍では19試合に登板。5勝1敗9セーブ、防御率3.22を記録し、最高勝率投手に輝いた。
2年目の1993年も5試合に登板。0勝2敗、防御率5.68を記録した。二軍では19試合に登板。3勝3敗1セーブ、防御率4.46を記録した。同年9月14日に行われたヤクルトとの二軍戦で120球を投げ、ノーヒットノーランを達成。
3年目の1994年は3試合に登板。0勝0敗、防御率7.71を記録した。二軍では23試合に登板。5勝7敗、防御率3.19を記録した。
同年4月26日に行われたヤクルトとの二軍戦でノーヒットピッチングをするも1失点し、敗戦投手に。この試合では相手投手・山部太がノーヒットノーランを達成したため、両チーム無安打という珍しい記録が生まれた。
プロ4年目~6年目
4年目の1995年は29試合に登板。1勝2敗、防御率2.42を記録し、一軍に定着した。
5年目の1996年は31試合に登板。2勝3敗、防御率5.53を記録した。同年は9.17と高い奪三振率を誇ったが、11被本塁打と一発を浴びる場面がたびたびあり、防御率が悪化した。
6年目の1997年は21試合に登板。1勝1敗、防御率3.30を記録した。同年オフに不整脈の手術を行った。
プロ7年目~9年目
7年目の1998年は29試合に登板。3勝0敗、防御率3.06を記録した。
8年目の1999年は23試合に登板。2勝2敗1セーブ、防御率3.62を記録した。同年は左肩痛により出遅れたが、8月に2勝、防御率1.29を記録するなどの活躍を見せ、最終的には例年並みの成績を残した。
9年目の2000年は6試合に登板。1勝1敗、防御率4.00を記録した。二軍では4試合に登板。0勝0敗、防御率0.00を記録した。同年は春に再び左肩痛を発症し、登板を大きく減らした。
プロ10年目~引退まで
10年目の2001年は9試合に登板。1勝1敗、防御率3.60を記録した。二軍では10試合に登板。2勝1敗、防御率4.05を記録した。同年もやはり左肩痛による出遅れがあり、登板数が伸びなかった。
11年目の2002年は1試合に登板。0勝0敗、防御率27.00を記録した。二軍では21試合に登板。1勝2敗、防御率2.08を記録した。
12年目の2003年は一軍登板なし。二軍では25試合に登板。2勝0敗、防御率4.34を記録した。
同年限りで西武を退団し、現役を引退。
引退後
引退後はセールスマンへ転身したが、2008年に西武のスカウトへ就任。杉山遙希、糸川亮太などを担当した。
選手分析
球速:1998年の映像を見ると、ストレートの球速は140km台前半ほど。
球種:左肩を痛める前は縦に割れる110km台の緩いカーブを武器とした。左肩を痛めて以降はフォークを中心とするピッチングスタイルに変化。
ピッチングスタイル:肩を痛める前のストレートとカーブを武器とするピッチングは「今中慎二に似ている」と評されたこともあった。
記録:1999年に奪三振率11.85を記録するなど、奪三振が多かった。一方で1996年には9暴投を記録するなど、球が荒れる場面も。