安達 智次郎(安達克哉)
あだち・ともじろう
生年月日:1974年8月21日
投打 :左投げ左打ち
身長/体重:187cm/80kg
ポジション:投手/外野手
出身 :兵庫県
ドラフト:1992年1位
経歴 :村野工業高校-阪神タイガース(1993~1999)
球種 :ストレート、縦のカーブ、スクリュー
※一軍登板なし
選手概要
ドラフト1位で指名された大型左腕。
高校時代は決して強豪校ではなかったが、自身の活躍により2年夏と3年春に甲子園へ出場。どちらも初戦で敗れたが、2年生の時は7回1/3を投げて7奪三振、3年生の時は9回を投げて12奪三振と、打者をきりきり舞いさせた。
注目された点は、恵まれた身体と最速147kmのストレート、鋭く縦に曲がるカーブで、3年春には既にドラフトの目玉として扱われていたようだ。
当時、阪神と巨人が指名すると言われていたが、結局1992年のドラフトで松井秀喜のハズレ1位として阪神へ入団。将来のエースとして期待された。
プロ1年目~3年目
1年目の1993年は二軍で17試合、80回1/3を投げ、4勝7敗、防御率3.36という成績。奪三振は53、与四球は42だった。
2年目の1994年はアメリカへ野球留学を経験し、スクリューをマスター。
しかし、この頃になるとストレートが120km台に落ちており、フォームにもバラつきが見られていた。のちに本人が語ったところによると、当時の二軍コーチがコントロールを重視する人で、指導されるうちにフォームが小さくまとまっていったとのこと。
また、同年は二軍で7試合を投げ、1勝2敗、防御率4.00だった。
3年目の1995年は登録名を「安達克哉」へ変更。だが、二軍で19試合を投げ、2勝4敗、防御率5.93といまひとつの結果に。54回2/3を投げて奪三振17、与四球40と、三振を奪えず、四球も与えてしまうピッチングだった。
プロ4年目~引退まで
4年目の1996年は再びアメリカへ野球留学したため、二軍でもわずか6試合の登板。また、0勝0敗、防御率14.73と結果を残せなかった。
5年目の1997年は登録名を「安達智次郎」に戻すことに。この年は二軍で9試合のみの登板で、0勝0敗、防御率10.03だった。
すると翌1998年は外野手へと転向。50m5秒9の俊足を活かせるという話だったが、47試合で、打率.236、0本、3打点、0盗塁という成績に終わった。
翌1999年は、同年に就任した野村克也監督の進言により、投手へ再転向。しかし、二軍で16試合を投げ、0勝1敗、防御率4.40という成績で、オフに戦力外となった。直後に近鉄の小林繁コーチから移籍の打診があったが、それを断り、現役引退。
引退後
その後、阪神の打撃投手やバーの店長などをしていたが、2016年に肝不全で死去。41歳の若さだった。