プロ野球歴代選手名鑑

歴代のプロ野球選手を紹介するブログです

阿部健太(近鉄/オリックス/阪神/ヤクルト)

阿部 健太

あべ・けんた
生年月日:1984年9月8日
投打  :右投げ左打ち
身長/体重:184cm/77kg
ポジション:投手
出身  :愛媛県
ドラフト:2002年4位
経歴  :松山商業高校-大阪近鉄バファローズ(2003~2004)-オリックス・バファローズ(2005~2007)-阪神タイガース(2008~2011)-東京ヤクルトスワローズ(2012~2014)(2015)
球種  :(近鉄時代)ストレート、スライダー、チェンジアップ
(ヤクルト時代)ストレート、スライダー、チェンジアップ、カーブ、カットボール、シュート

選手概要

長い期間、白星から遠ざかっていた右腕。

高校時代は2年夏にエースとして活躍し、甲子園ベスト4入り。3年夏は県大会3回戦で敗れ、甲子園出場はならなかった。

それでも好投手としての評価は高く、2002年のドラフトで近鉄から4位指名を受けて入団。岩隈久志が背負っていた背番号「48」を与えられるなど、球団から大きく期待された。

また、当時の前評判は「MAX148kmのストレートと、鋭い高速スライダーを投げる」「変化球を自在に操るコントロールを持っている」というものだった。

近鉄時代

1年目の2003年は、8月31日に初先発初勝利を挙げ、9月14日には完投勝利を達成するなど、いきなり活躍。5試合を投げ、2勝0敗、防御率2.16と、高卒1年目としては充分の好成績を記録した。

特徴的だった点がフォームで、前述の岩隈に瓜二つの二段モーション。タイプとしては本格派で、140km台中盤のストレート、スライダー、チェンジアップを投げていた。

当時の首脳陣からの評価は相当高く、翌年に新人王の権利を残すため、25回で登板を止める配慮をするほどだった。

それほどの期待をされた2年目の2004年だったが、2試合を投げて0勝1敗、防御率13.50と結果を残せず。同年はフォームを赤堀元之に似たものに変えていたようだが、これが影響したか。

同年は二軍でも16試合、79回を投げて規定投球回に到達したが、3勝6敗、防御率6.49という成績だった。

オリックス時代

分配ドラフトを経てオリックスで迎えた3年目の2005年は、3試合、0勝0敗、防御率7.20という成績。一方、二軍では27試合、2勝4敗1セーブ、防御率4.20と前年よりも防御率を改善させた。

4年目の2006年はリリーフで5試合を投げて0勝0敗、防御率4.26という成績。しかし、二軍では27試合、2勝2敗2セーブ、防御率2.52と結果を残した。

5年目の2007年は一軍登板なし。二軍でも19試合を投げて4勝3敗、防御率4.63という成績だった。同年オフに平野恵一と共に阪神へトレード移籍。交換相手は濱中修+吉野誠だった。

阪神時代

すると移籍が転機となったか、翌2008年は32試合に登板し、0勝1敗、防御率2.96と、リリーフで復活。1年目もそうだったが、左打者に多く投げるチェンジアップが効いていた。

しかし、同年はバテてしまったのか、後半戦は打ち込まれる場面も。さらに翌2009年は19試合、0勝1敗、防御率3.27と、成績が少し悪化してしまった。

その後、翌2010年、2011年は一軍登板がなく、オフに戦力外に。だが、トライアウトでヤクルトへ入団。2011年は二軍で28試合を投げて防御率2.67と結果を残していただけに、チャンスがあれば結果を残せると思われたのだろう。

ヤクルト時代

新天地で迎えた2012年は、ビハインドの場面でのリリーフをメインに15試合を投げ、防御率3.60という成績。この頃になると球速は130km台に下がり、スライダー、チェンジアップ、カーブ、カットボール、シュートと、多彩な変化球で勝負するようになっていた。

翌2013年は18試合を投げて防御率4.50と成績を落としたが、7月に3580日ぶりとなる勝利を挙げた。これは遠山奨志の3507日を超える、国内最長記録だった(NPB球団のみに在籍した投手に限る)。

翌2014年は11試合を投げて防御率13.81と打ち込まれ、オフに戦力外通告を受けて現役を引退。スコアラー兼打撃投手に転身した。

しかし翌2015年、チーム野手陣に怪我人が続出し、二軍が選手不足に。そのため、育成選手として現役復帰し、二軍で11試合に出場。打率.118、0本、3打点を記録し、9試合で外野の守備に就いた。

同年オフに再び戦力外通告を受けたあとは、スカウトへ転身。奥川恭伸などを担当した。

 

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