プロ野球歴代選手名鑑

歴代のプロ野球選手を紹介するブログです

都裕次郎(中日)

都 裕次郎

みやこ・ゆうじろう
生年月日:1959年2月25日
投打  :左投げ左打ち
身長/体重:180cm /84kg
ポジション:投手
出身  :滋賀県
ドラフト:1976年1位
経歴  :堅田高校-中日ドラゴンズ(1977~1989)
球種  :ストレート、シュート

選手概要

中日一筋でプレーした、エース左腕。

滋賀県で誕生し、父親が石原裕次郎のファンだったため「裕次郎」と名付けられた。

アマチュア時代

堅田中学校時代に野球を始めたが、当時は控え投手だった。

堅田高校へ進んでから頭角を現し、エースとして君臨。3年生の時に県大会で1試合16奪三振の新記録を達成。さらに、高校通算か3年生の時のみかはわからないが、73回を投げて119奪三振を記録するなど、活躍を見せた。

1976年にドラフト1位で中日へ入団。「江夏豊二世」「剛球左腕」という前評判だった。

プロ1年目~3年目

1年目の1977年は二軍で11試合に登板。1勝1敗、防御率7.04を記録した。同年は「球威不足」と評されることもあった。

2年目の1978年は二軍で6試合に登板。2勝0敗、防御率3.00と成績を上げた。

3年目の1979年に一軍デビューし、25試合に登板。2勝2敗3セーブ、防御率2.52を記録した。

プロ4年目~6年目

4年目の1980年は19試合に登板。3勝1敗、防御率2.81を記録した。同年は4月に左肘を痛めて離脱。肘が全く曲がらないほどの故障だったが、9月に一軍へ復帰した。

5年目の1981年は36試合に登板。6勝8敗1セーブ、防御率4.47を記録した。オフにアメリカ教育リーグへ参加。

6年目の1982年は43試合に登板。16勝5敗、防御率3.14、勝率.762を記録し、最高勝率に輝いた。同年はチームの優勝に貢献し、オールスターにも選ばれるなど、好調の年だったが、腰を痛める不運にも見舞われた。

プロ7年目~9年目

7年目の1983年は43試合に登板。6勝9敗5セーブ、防御率4.57を記録した。前年に腰を痛めた影響で、この年は不振だった。

8年目の1984年は34試合に登板。13勝8敗1セーブ、防御率4.08を記録した。

9年目の1985年は7試合に登板。0勝2敗、防御率3.20を記録した。同年は左肩を痛めた影響で登板が少なく、二軍でも1試合投げて0勝0敗、防御率2.25を記録したのみだった。

プロ10年目~引退まで

10年目の1986年は23試合に登板。2勝1敗、防御率3.32を記録した。同年も左肩痛に悩まされ、成績が上がらなかった。

11年目の1987年は一軍・二軍共に登板なし。やはり左肩痛が酷く、同年は一時期支配下登録を外れたこともあった。

12年目の1988年は12試合に登板。0勝0敗、防御率3.18を記録した。

13年目の1989年は1試合に登板。0勝0敗、防御率9.00を記録した。

二軍では6試合に登板。2勝1敗、防御率2.25を記録した。

同年限りで現役を引退。

引退後

翌1990年は中日で打撃投手を務めた。

翌1991年~2002年までスコアラーを務め、2003年は二軍投手コーチを務めた。

2004年は何をしていたか不明。2005年~2014年までスコアラー、2015年~2017年までチーフスコアラーを務めた。

2018年は二軍投手コーチを務めた。

2019年~2020年は再びスコアラー、2021年~2023年は査定担当を務めた。

選手分析

球種:1981年頃「ストレートとシュートが武器」と言われた。

エピソード

・1980年頃「チームで一番礼儀正しい」と言われた。

 

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【1976年 中日ドラフト指名選手】
1位:都裕次郎
2位:生田裕之
3位:宇野勝
4位:今岡均
5位:高元勝彦
6位:中原勇一
ドラフト外:柳沢高雄
新外国人:デービス