加藤 初
かとう・はじめ
生年月日:1949年12月20日
投打 :右投げ右打ち
身長/体重:175cm/72kg
ポジション:投手
出身 :静岡県
ドラフト:1971年ドラフト外
経歴 :吉原商業高校-亜細亜大学(中退)-大昭和製紙-西鉄/太平洋クラブライオンズ(1972~1975)-読売ジャイアンツ(1976~1990)
球種 : ストレート、シュート、カーブ、フォーク、スライダー
選手概要
「鉄仮面」と呼ばれた右腕。
アマチュア時代
吉原商業高校から亜細亜大学へ進むも中退。大昭和製紙へ入社し、エースとして活躍。1971年に都市対抗へ出場。この時のチームメイトに安田猛らがいる。
同年に大昭和製紙は「ドラフトで2人の投手はプロへ送れない」と主張したため、安田のみがドラフトで指名された。
加藤は指名されなかったが、プロへ進みたかったために大昭和製紙を退社し、ドラフト外で西鉄へ入団。本指名でなくドラフト外入団だった理由は、実力不足ではなく、こうした事情によるものだった。
入団時「ストレートにキレがある」と言われた。
西鉄/太平洋クラブ時代
1年目の1972年は48試合に登板。17勝16敗、防御率3.95を記録する活躍を見せ、新人王に輝いた。ちなみに、同年のセ・リーグ新人王は前述した安田だった。
この頃はノビのある速球と小さいカーブ、シュートを投げていた。また、制球があまりよくなかったことも記録から見て取れる。
2年目の1973年は43試合に登板。8勝11敗、防御率4.16を記録した。
3年目の1974年は34試合に登板。12勝12敗、防御率2.95を記録した。
4年目の1975年は28試合に登板。8勝11敗、防御率4.30を記録した。
同年オフの12月23日、伊原春樹と共にトレードで巨人に移籍。交換相手は関本四十四+玉井信博だった。
巨人時代(1976年~1982年)
移籍初年度の翌1976年は、4月18日にノーヒットノーランを達成するなど活躍。46試合に登板し、15勝4敗8セーブ、防御率3.70を記録した。
同年オフは病気に苦しめられたが、翌1977年途中に復帰。13試合を投げ、4勝1敗3セーブ、防御率2.89を記録した。
翌1978年は34試合に登板。8勝5敗3セーブ、防御率3.61を記録した。
翌1979年は36試合に登板。7勝10敗2セーブ、防御率3.99を記録した。
翌1980年は13試合と登板減。1勝1敗、防御率3.67を記録した。同年は敗戦処理がメインだった。
翌1981年は30試合に登板し、復活。12勝6敗2セーブ、防御率2.91と好成績を残した。
翌1982年は24試合に登板。4勝7敗、防御率3.10を記録した。
巨人時代(1983年~1986年)
翌1983年は右腕の血行障害に悩まされ、シーズン途中に手術を受けた。しかし、9月にカムバックし、復活。17試合と登板数は減ったが、8勝3敗、防御率2.66を記録した。
翌1984年は25試合に登板。10勝7敗、防御率3.36と、前年の手術の影響を感じさせない活躍を見せた。
翌1985年は30試合に登板。4勝8敗3セーブ、防御率3.43を記録した。
翌1986年は26試合に登板。14勝5敗、防御率2.76と成績を上げた。同年からスライダーも投げるようになっている。
巨人時代(1987~1990年)
翌1987年は19試合に登板。7勝1敗、防御率3.03を記録した。
翌1988年は14試合に登板。2勝4敗、防御率3.42を記録した。
翌1989年は選手兼任コーチへ就任。4試合に登板し、0勝1敗、防御率12.86を記録した。
翌1990年は6試合に登板。0勝0敗1セーブ、防御率2.63を記録した。
同年限りで現役を引退。
晩年はアンダースローに挑戦するなどの試みを行っていた。
引退後
引退後は解説者となった。
1995年~1998年途中まで西武の二軍投手コーチ、1998年途中から1999年まで一軍投手コーチを務めた。翌2000年にフロント入りしたが、翌2001年に一軍投手コーチへ復帰。同年オフに西武を退団。
その後は韓国のLGツインズ、台湾のLa Newベアーズなどでコーチを務めた。
2007年から韓国のSKワイバーンズで投手コーチを務め始めたが、2011年に体調不良のため退団。帰国後に直腸癌が見つかり、以後闘病生活となった。
2016年12月11日に逝去。66歳だった。
選手分析
・ライオンズに河村英文コーチが在籍していた1973年まではスリークォーターで投げていたが、河村コーチ退団後はオーバースローにしていた。
・1976年頃は、杉下茂コーチに言われて投法をスリークォーターに戻していた。また、杉下コーチに教えられたかどうかはわからないが、この頃からフォークも投げ始めた。
・1983年と1985年の映像を見ると、確認できる限りでの最高球速が144km。平均的な球速は140km前半といったところ。
・シュートもストレートと同じくらいのスピード。他に110km台、120km台のカーブ、130km台のフォークを投げている。
・牽制が上手な投手だった。
エピソード
・「鉄仮面」は試合中のポーカーフェイスから付いたあだ名。ちなみに野球だけでなく、麻雀中も無表情を貫いていた。
・「巨人で一番テレビゲームが上手い」と言われていた。