プロ野球歴代選手名鑑

歴代のプロ野球選手を紹介するブログです

仁科時成(ロッテ)

仁科 時成

にしな・ときなり
生年月日:1951年6月2日
投打  :右投げ右打ち
身長/体重:176cm/77kg
ポジション:投手
出身  :岡山県
ドラフト:1976年3位
経歴  :山陽高校(岡山県)-大倉工業-ロッテオリオンズ(1977~1988)
球種  :ストレート、スライダー、数種類のシンカー

選手概要

ロッテ一筋のアンダースロー右腕。

山陽高校3年の12月、トレーニングをしていた最中に腰痛を発症。卒業後は大倉工業へ入社したが、そのために1年半投げられなかった。復帰後はサイドスローへ転向したが、徐々に腕が下がっていき、アンダースローになった。

入社7年目、25歳の時にドラフト3位でロッテへ入団。「社会人No.1アンダースロー」「即戦力」という前評判だった。

プロ1年目~5年目

1年目の1977年は26試合に登板。5勝2敗1セーブ、防御率4.25を記録した。二軍では3試合に登板。3勝0敗、防御率0.00と格の違いを見せつけた。

2年目の1978年は32試合に登板。9勝6敗、防御率4.25を記録した。

3年目の1979年は30試合に登板。9勝11敗、防御率4.00を記録した。この頃になると「村田兆治に続く先発二番手」と評価されるようになっていた。

4年目の1980年は29試合に登板。17勝8敗、防御率3.19と、自己ベストとなる成績を残した。同年はロッテ前期優勝に貢献し、パ・リーグ前期MVPも獲得。

5年目の1981年は29試合に登板。13勝10敗、防御率4.06を記録した。

プロ6年目~10年目

6年目の1982年は27試合に登板。9勝14敗、防御率4.40と少し成績を落とした。

7年目の1983年は28試合に登板。5勝13敗、防御率5.06と不調の年だった。

同年8月20日に行われた近鉄との試合で、9回二死までノーヒットノーランを続けるも仲根政裕に安打を打たれ、大記録を阻止された。

8年目の1984年は29試合に登板。13勝11敗、防御率3.71と復調を果たした。

同年5月29日に行われた近鉄との試合で、再び9回二死までノーヒットノーランを続けたが平野光泰に左前打を放たれ、阻止された。

9年目の1985年は30試合に登板。12勝13敗、防御率4.32を記録した。

10年目の1986年は25試合に登板。10勝12敗、防御率4.98を記録した。

プロ11年目~引退まで

11年目の1987年は18試合に登板。7勝7敗、防御率3.20を記録した。

12年目の1988年はリリーフをメインとして31試合に登板。1勝1敗、防御率4.06を記録した。

同年限りで現役を引退し、コーチへ転身。

現役引退後

翌1989年~1990年はロッテの二軍投手コーチ、1991年~1993年は一軍投手コーチ、1994年~1995年は二軍投手コーチを務めた。

2001年に再びロッテの一軍投手コーチへ就任。翌2002年は二軍投手コーチを務めた。ちなみにこの時期、ロッテには同じくサブマリンで投げる渡辺俊介が在籍していた。

元ロッテ球団職員・横山健一氏のポストによると、2020年1月に仁科が逝去したとのこと。

選手分析

・チームメイトだった深沢恵雄と同じく、内角を果敢に攻める投手で与死球が多かった。通算142与死球は2024年4月現在、プロ野球歴代5位となる記録。

・深沢は浮き上がるストレートを武器とする本格派だったが、仁科は時に100km以下の変化球を投げる、球を手離すタイミングを変える、など投球術と変化球で勝負する技巧派だった。

・スライダー、数種類のシンカーを投げた。

エピソード

・電車の中で立ちながら寝られるという特技(?)を持っていた。

・温厚な性格で人当たりもよく、選手会長を担ったこともあった。

 

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【1976年 ロッテドラフト指名選手】
1位:森繁和(入団拒否)
2位:前川善裕(入団拒否)
3位:仁科時成
4位:坂川重樹
5位:伊藤浩
新外国人:スティーブ リー