尾崎 匡哉
おざき・まさや
生年月日:1984年6月2日
投打 :右投げ右打ち
身長/体重:182cm/83kg
ポジション:内野手/捕手
出身 :兵庫県
ドラフト:2002年1位
経歴 :報徳学園高校-日本ハムファイターズ(2003〜2014)
選手概要
幅広いポジションを守る器用さを見せた野手。
高校時代
報徳学園高校時代は「1番・遊撃」として活躍。3年春に甲子園へ出場し、見事優勝を果たした。
さらに3年夏にも甲子園へ出場。1回戦で浦和学院高校に敗退したものの、大きく名前を売った。また、当時の同級生に大谷智久などがいる。
2002年に日本ハムからドラフト1位で指名されて入団。「高校通算21本塁打」「走攻守揃った大型遊撃手」という前評判で、西岡剛などと並び、将来が期待された。
プロ1年目~5年目
1年目の2003年は二軍で20試合に出場し、打率.222、1本、2打点を記録。同年は、打撃ではアピール出来なかったが、フィールディングの部分では安定感を見せており、当時の野球雑誌では、守備時の身のこなしについて評価されていた。
2年目の2004年は二軍で67試合に出場し、打率.241、3本、20打点を記録。成績を少し上げ、徐々に力をつけてきた姿をアピールした。
3年目の2005年は三塁の守備にも挑戦。同年は二軍で80試合に出場し、打率.245、5本、34打点を記録。前年とあまり変わらない成績で、少し足踏みとなった。
4年目の2006年は二軍で89試合に出場し、打率.275、7本、46打点を記録。主に「5番・三塁」を担い、打力を発揮したが、一軍出場とはならなかった。既に西岡がWBCに出場するなど同い年が躍動する中で、少し影が薄くなってしまった印象もあった。
5年目の2007年は二軍で72試合に出場し、打率.314、5本、40打点を記録。打撃でアピールし、結果も残したが、一軍での出番はなかった。
プロ6年目~8年目
6年目の2008年春に捕手へ挑戦するプランが浮上。グラブの先や土手で打球を弾く悪癖があったことが、捕手転向案が出た理由だった。
同年に一軍デビューを果たし、8試合に出場。打率.133、0本、0打点を記録した。また、出場はすべて内野手としてのもので、捕手としては出番がなかった。
また、二軍では53試合に出場し、打率.326、5本、28打点を記録。二軍では捕手として8試合、一塁手として3試合、二塁手として26試合、三塁手として20試合、遊撃手として1試合と、幅広いポジションを守った。
7年目の2009年は本格的に捕手へ転向。二軍で53試合に出場したが、難しいポジションへ移ったためか、打率.226、6本、16打点と成績を大きく落とした。また、一軍出場もなかった。
8年目の2010年に初めて捕手として一軍へ出場。9試合、打率.214、0本、0打点を記録した。
一方、二軍では一塁19試合、二塁12試合、三塁15試合、捕手16試合と、まるで"便利屋"のように様々なポジションを守った。それでも69試合、打率.292、13本、48打点を記録し、結果を残した。
プロ9年目~10年目
9年目の2011年も二軍で内野全ポジションに加えて捕手も守りながら、84試合、打率.306、7本、43打点と好成績を記録した。しかし、一軍出場はなし。
一軍首脳陣から見放されてしまったのかなんなのか。すっかり二軍のユーティリティになってしまった。同年に二軍球場で「尾崎がいないと二軍の試合が成立しないから(一軍に上げられないんだ) 」とファンの冗談の声が聞かれたことすらあったほどである。
10年目の2012年は顔面に死球を受けた影響があったか、二軍で80試合、打率.205、7本、31打点と成績を大きく落とした。また、一軍出場もなし。
プロ11年目~引退まで
翌2013年は4試合に出場し、打率.200、0本、1打点を記録。二軍では65試合、打率.322、4本、19打点と結果を残したが、一軍で数少ないチャンスを活かせなかったのが痛かった。
翌2014年も4試合に出場し、打率.000、0本、0打点を記録。二軍では41試合、打率.311、3本、16打点を記録したが、やはり同年も一軍で結果を残すことが出来なかった。
同年オフに戦力外となり、日本ハムを退団。トライアウトへ参加したものの、獲得を表明する球団は現れず、現役を引退した。
なかなか一軍で使われず、便利屋のような扱いを受けながらもハツラツとプレーし続けた姿には拍手を送りたかった。出来れば一軍でもその元気なプレーを見たかっただけに、チャンスが少なかったことは残念。
引退後
引退後はG.G.佐藤の父親が社長を務める、トラバースへ入社。
その後退社し、2024年現在は宝塚市でパーソナルジム・野球塾「匡 workout」を経営している。