プロ野球歴代選手名鑑

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星野真澄(巨人)

星野 真澄

ほしの・ますみ
生年月日:1984年4月4日
投打  :左投げ左打ち
身長/体重:181cm/85kg
ポジション:投手
出身  :埼玉県
ドラフト:2009年育成1位
経歴  :埼玉栄高校-愛知工業大学-バイタルネット-信濃グランセローズ-読売ジャイアンツ(2010~2014)
球種  :ストレート、スライダー、カットボール、チェンジアップ(2012年はチェンジアップを投げなくなり、新しくフォークを投げた)

選手概要

リリーフ左腕。

アマチュア時代

埼玉栄高校、愛知工業大学を経て、社会人のバイタルネットへ入団。ここで谷元圭介と共にドラフト候補として名前が挙がるほどの活躍を見せた。

しかし社会人2年目の2008年、都市対抗予選決勝の朝に肺気胸を患う不運に。それでもマウンドへ上がったが、2回を投げて降板。ベンチ裏で横になったが、いつの間にか気を失っていたという。

試合後に病院へ行き、手術を受けて入院したが、そのために体力が低下。球のキレが戻らず、本人曰くストライクを入れるので精いっぱいの投球で、同年のドラフトでも指名されなかった。

信濃時代

2年でプロ入りができなければ会社を辞める、と本人が決めていたため、同年にバイタルネットを退社。信濃グランセローズのトライアウトを受けて合格し、2009年からは信濃で投げることになった。

ここでは月給12万円という契約でプレーし、オフは日給8000円のキノコの箱詰め作業の仕事をしていたという。

こうした厳しい環境下でチームのエースとして活躍。見事2009年のドラフトで巨人から育成1位指名を受け、NPB入りを果たした。

巨人1年目~2年目

1年目の2010年は、キャンプで原辰徳監督から「山口鉄也を彷彿とさせる」とポジティブなコメントが聞かれ、オープン戦でも好投。すると、早くも3月17日に支配下へ登録された。

同年は一軍で34試合に登板。0勝0敗1H、防御率3.93の成績を残した。

スリークォーターのフォームから140km台中盤ほどのストレートと、スライダー、カットボール、チェンジアップを投げる投手。左腕としては比較的球が速く、チェンジアップで緩急も効いている印象を受けた。

しかし、34回1/3を投げて被本塁打7、与四球18と、甘く入って一発を打たれたり、余計なランナーを出してしまう場面も。コントロールの課題が解消されれば、防御率も改善されるのではないかと思わされた。

2年目の2011年は一軍で3試合と出番が減り、防御率13.50と結果を残せず。二軍では34試合を投げ、2勝6敗、防御率2.17を記録した。

巨人3年目~引退まで

3年目の2012年は制球力向上のために腕を少し下げたことで、スライダーでいつでもカウントが取れるようになったという。

5月28日にはプロ初勝利を記録し、6試合で防御率3.48と好投を見せていたが、8月に左股関節唇の手術を受けることに。同年はこれ以降一軍登板がなく、オフに育成降格となった。

翌2013年は二軍で22試合を投げ、0勝1敗、防御率5.02という成績。7月に支配下へ復帰したが、一軍登板はなかった。

翌2014年は二軍で45試合を投げ、3勝2敗3セーブ、防御率1.25と好投を見せたが、一軍登板なし。さらに、オフには戦力外となった。

その後、トライアウトを受けるも獲得する球団はなく、現役を引退。

貴重な左腕であり、かつ最終年は二軍で36回を投げて40奪三振と三振を奪う力を見せていただけに、どこも獲得しなかったことは意外だった。30歳という年齢や手術歴がネックとなった可能性もあるが、左腕不足の球団が獲得してもよかったのでは。

余談だが名前の「真澄」は、父が桑田真澄のファンだったためにつけられた。星野本人も子どもの頃、桑田のファンだったという。

 

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