斉藤 巧
さいとう・こう
生年月日:1957年11月25日
投打 :右投げ右打ち
身長/体重:180cm/80kg
ポジション:内野手/捕手
出身 :兵庫県
ドラフト:1975年4位
経歴 :洲本実業高校-大洋/横浜大洋ホエールズ(1976~1982)-ロッテオリオンズ(1983~1990)-オリックス・ブルーウェーブ(1991)
選手概要
内野手から捕手へ転向した野手。
洲本実業高校を経て、1975年にドラフト4位で内野手として大洋へ入団。「素質はあるが、まだ体が出来上がっていない」「三塁手」という前評判だった。
大洋1年目~5年目
1年目の1976年は二軍で56試合に出場。打率.242、2本を記録した。
2年目の1977年に一軍デビューし、9試合に出場。遊撃を5試合守り、打率.000、0本、0打点を記録した。二軍では56試合に出場。打率.256、9本、33打点を記録した。同年二軍では、イースタン努力賞に輝いている。
3年目の1978年は一軍出場なし。二軍では61試合に出場。規定打席に到達し、打率.301、5本、30打点、6盗塁を記録した。同年二軍ではイースタンベストナインに選ばれている。
4年目の1979年は3試合に出場。打率.000、0本、0打点を記録した。同年は開幕一軍入りを果たしたが、3試合出場したあとに左膝の故障により二軍へ落ちた。
二軍では33試合に出場し、打率.304、1本、16打点を記録。二軍でも左腕の骨折があり、あまり試合に出られなかった。
5年目の1980年は52試合に出場。打率.273、2本、3打点を記録した。
大洋6年目~7年目
6年目の1981年は98試合に出場。打率.233、3本、12打点を記録した。
7年目の1982年は15試合に出場。打率.053、0本、1打点を記録した。二軍では53試合に出場。規定打席に到達し、打率.267、7本、44打点を記録した。
同年オフ、1983年2月15日に「斉藤+金銭⇔レオン・リー」のトレードで、ロッテへ移籍。
大洋時代は二塁、三塁、遊撃を守ったが、基満男、田代富雄、山下大輔らからポジションを奪うことが出来なかった。
ロッテ時代
翌1983年は8試合に出場。一塁を3試合守り、打率.000、0本、0打点を記録した。二軍では60試合に出場。打率.283、7本、26打点を記録した。
翌1984年は62試合に出場。同年も主に一塁を守り、打率.197、3本、15打点を記録した。
翌1985年に捕手へ転向。アマチュア時代を含めて一度も経験がないポジションだったが、44試合に出場し、打率.245、0本、4打点を記録した。
翌1986年は102試合と出番増。捕手と一塁を守り、打率.288、6本、29打点を記録した。
翌1987年は82試合に出場。打率.277、3本、15打点を記録した。
翌1988年は58試合に出場。打率.263、1本、14打点を記録した。
翌1989年は60試合に出場。打率.218、1本、4打点を記録した。
翌1990年は28試合に出場。打率.200、0本、6打点を記録した。
同年オフに金銭トレードでオリックスへ移籍。
オリックス時代
翌1991年は9試合に出場。打率.091、0本、1打点を記録した。
同年限りで現役を引退。
引退後
翌1992年はオリックスのリザーブコーチ補佐、1993年~1994年は一軍バッテリーコーチ、1995年~1998年は二軍バッテリーコーチを務めた。
余談だが中学生時代は新聞配達、高校生時代は牛乳配達の仕事をしていた。また、何回転しても目が回らないという特技を持っていた。
選手概要
・本人曰く「左の本格派投手が得意」
【1975年 大洋ドラフト指名選手】
1位:田村政雄
2位:岩井靖久
3位:松本隆春
4位:斉藤巧
5位:根本俊郎(入団拒否)
ドラフト外: 内田周作・河守峰男